窓を叩きつける雨の音で目が覚めた。
そういえばスコアで夜中に雨が降ると言っていたような気がする。

そんな事を考えながら、アスランは身を起こした。
再び眠りについても良かったが、何故かそうする気になれない。
ベッドから降り、外の様子を見ようと窓に近付く。


「…え?」


そこで見かけた人影に、思わず声を上げる。
見間違いかと、目をこすり、再度見る。


「陛下…」


見間違いなどではない。
夜でも分かる金糸の髪に、高い背、広い肩幅。
後姿しか見えないが、見間違えるはずがない。己が忠誠を誓った主。
それが今雨に打たれている。


「陛下…!」


外套を羽織り、廊下へと駆け出す。
考えるより先に足が動いていた。


−−−−−−−−−−−−−−−−−


「陛下!」


聞き慣れた声にピオニーがゆっくりと振り返った。
どこか空虚な、しかし威厳のある姿に思わず足が止まる。


「アスランか。どうした?こんな時間に」
「それはこちらの台詞です!お風邪を召されます。早く中に…」


お入り下さい、と続くはずだった言葉は、しかし続く事無く闇に吸い込まれた。

唐突にピオニーがアスランに近付いた為に。

鼻先が触れそうな程近寄られる。
射抜くような強い視線が、体に「動く」事を忘れさせる。
後ずさる事は勿論、指先、瞬き、思考、全て。呼吸でさえも、止まってしまいそうな。


「アスラン」


ピオニーはアスランの額に唇を落とすと、腕を掴み歩き出した。
半ば引きずられるようにしながら、ピオニーについていく。 先程のキスがきっかけであるかのように、いつの間にか体は動いていた。


「陛下、どこへ行かれるのですか?」


宮殿の入り口とは別の方向へと連れて行かれるのを訝しげに思いながら問う。
しかしそれに対する返事は返ってくる事は無く、


「どこだと思う?」


逆に質問で返された。


「私には判りかねます」
「なら黙ってついて来い」


アスランが僅かに目を見張った。常とは違う口調。低く無感情な声。どこか苛立ちを含んだような雰囲気に気圧される。

意味も無く不安になり、歩調が遅くなる。
ついていく事を拒んでいるとでもいうのだろうか。
しかしピオニーの歩調は緩む事無く、その速度に合わない足はもつれて転びそうになった。
ピオニーの背中に向かって倒れ、その失態に苦い顔をしながら――みっともなく転ぶ事は避けられたが――同時に少し安心もした。

ぶつかった拍子に歩みが止まっていた。
先程感じた不穏な空気が和らいでいる。いつもと同じ、けれどどこか悲しそうにも思えた。


「…すまない。少し、取り乱していたみたいだな」


俯いて力なく話す様子に何も言えず、ただ小さく「気になさらないで下さい」と呟いて体を離した。
しかしすぐに振り返り、強く抱きしめられる。肩に顔を埋められる。
僅かに垣間見た顔は、泣き出しそうなものに見えた。いや、泣いていたのかもしれない。

顔を濡らす雨がそう思わせたのだろうか。


「陛、下…」


「はは、情けないな…。
……駄目なんだ。雨の日はどうも気分が塞いでな。色々と思い出して嫌になる」


滅多に弱音を吐かないピオニーの声は、普段であれば威厳のあるはっきりとしたものだが、今は細く小さく頼りない。
相当弱っているのか、と思う。

肩に掛かる重さは、この人が背負ってきたもの、背負うものの重さと同じなのだろうか。


――私に、それを支える事はできないのだろうか


そう考えて、しかし無理な話だ、と思い直す。一介の軍人にそんな大それた事は出来ない。
その考えに比例するように、背中に回しかけた腕は静かに下ろされた。
代わりに持ってきていた雨除けの布をピオニーの体に掛ける。


「風邪を、召されます。陛下…」


もう少し気の利いた事が言えれば良いのに。
それでもこの人は笑ってありがとう、と言った。顔は見えなかったが、何となく笑ったのだと思った。


「アスランは優しいな。
…さっきまで俺はお前を無理やりにでも抱こうと考えてたんだが。
だから人目につきにくい場所まで行こうとしていた」


再び目を見張る。体が一瞬硬直するのが分かった。
それを感じ取ったのか、ピオニーはアスランから体を離し、自嘲気味に笑った。


「最低だな、俺は。好きだ好きだ大切だ言い続けてきたっていうのに、やろうとした事は最低だ」


どうすれば良いのだろう。何故陛下はこのような顔をなさるのか。
…何より抱かれる、と聞いてそれをどこか嬉しいと思う自分がいた。それこそどうすれば良いのだろうか。


「そのような、事は」


何とか言葉を絞り出す。


「それなら聞く。俺はお前が好きだ。お前はどうだ?」
「…どういう事でしょうか」


脈絡もない話を振られ、問い返す。
ピオニーはそれに気分を害する事無く、真っ直ぐとアスランを見つめた。


「お前は俺が気分的に弱っている事を知っているだろう。お前がそんな俺に逆らえない…優しい事を俺は知っている。 お前が今は嘘でも俺を好きだと、そう言ってくれるだろうと思っている。俺はお前の弱みにつけこんでいるんだ。
…どうだ?最低だと思わないか?」


真摯な目だ。本当はそう思っていない事など一目瞭然。そんな事を思わせる目だ。


「…そうかもしれません」


アスランの返答に、やはりな、と小さく呟いて被りを振る。
しかし、「けれど」と続かれた言葉に再びアスランを見遣る。


「けれど、それを嬉しいと思う…私もいます」


そして踵を少し上げ、ピオニーの頬に口付けた。
驚いた様子で瞬きを繰り返す姿を見て、アスランは今さらながらに自分のした行為に恥ずかしさを感じた。
頬に熱が集まってくるのを感じて、俯く。


「アスラン…」


ピオニーがアスランの俯いた顔を両手で挟んで、上げさせる。冷えた手が火照った顔に気持ちよかった。


「聞いてくれるか?」


頷く。
何度も何度も聞かされてきた言葉を言われるであろう事は判っていた。


「お前が、好きだ」


一語一語確かめるようにゆっくりと紡がれる言葉。
何度も聞いているのに、それには感情を高ぶらせるようなものを秘めていて。

吸い寄せられるように唇を重ねた。

優しく、啄ばむ様に、乱暴に、深く、激しく。
角度を変え、何度も何度も。


「陛下、も…」


体に力が入らなくなり、膝が折れる。
ピオニーもそれに合わせて膝を折った。
キスは止まる事無く続けられる。

体に当たる雨が冷たい。それなのに体は正反対に熱くなっていく。おかしな感覚だ。

ピオニーの背にかけられた布を掴み、熱くなっていく体に耐える。


「ふっ、…ん…陛、下…陛下…」
「アスラン、アスラン…」


冷気と熱とに浮かされている気分だ。現実ではないような感覚。
明日になれば無かった事になるだろう。それならば今はこの瞬間を甘んじて享受しよう。



――陛下…。私は貴方のお力になりたいと、願っています
――貴方の支えになりたいと願っています

――貴方が、好きです



ああ…こんな無かった事にできるような、浮かされたような今ではなくて、陛下の目を見ながらはっきりとこう言えたらどんなに良いだろう。 どんなに楽だろう。どんなに嬉しいだろう。

陛下のように、そう言えたら、どんなに。



「陛下…私は、」



この想いも、それを告げそうになる声も、それが出てしまう表情も、全て、全て。






雨が、全て流し去ってくれれば良いのに。








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